あまりにも有名すぎる「隣人を愛せ」というお言葉なの、“隣人”というのは日本語の近所の人・身近な人という意味よりも、アガペー(無条件の愛)というニュアンスの方が近いかもしれません。もっともこの辺を突き詰めていくと哲学の世界になってしまうので遠慮しておきます。
映画上映に先だって、Facebookがどんな物なのか漠然と想像してみた。
よくよく考えると5億人が隣人と仲良くしている世界というのは何ともすごい。
もちろんインターネット全体で見れば市場規模はもっと巨大な物ですし、さらに幅を広げてTCP/IPから見たら数十億人という規模になるでしょう。
しかし、同じ土俵(この場合はドメイン)の元に5億人規模の人が自由に発言して“隣人”との交流をしているというのは有史上例のないことではないでしょうか。国も宗教も肌の色も言葉も違う人たちが同じサイト…Facebookで平等な交流をしているんですよ。約束された平等の元で。
さて、宗教家は大体がこういう言葉を口にするでしょう。
「神の元の平等」
神様という得体の知れない(失礼)存在が相手ならもう反論しようがないというかまじめに反論する相手がないというか;p
宗教の数だけ神様がいて、全知全能の神もいれば日本なんて“トイレの神様”までいるんですから単純に“神”なんて言葉は、インターネット用語のバズワードと一緒で正確な意味なんて無いと思っても良いんじゃないでしょうか。
でもさ、Facebookはそれをやってしまってるわけですよ。
「Facebookの利用規約の下の平等」
あなたはFacebookの足にキスをする必要は無いのです。銀貨30枚の価値に満たないあなたという個人情報をFacebookにゆだねるだけで、あなたはカナンの地のような平等なFacebookという世界の一員として施しを受けることが出来るのです。
生まれた(サインインした)ばかりのあなたは、約束された地であるFacebookの中であなたは孤独でしょう。
平等であるが故にFacebookはあなたを導いたりしてはくれません。ですが、あなたはこの地を縦横好きに動き回ることが出来るのです。ボタン1つでいくらでも遠くへ行く事が出来るFacebookの世界では、繋がる限り全てのリンクをあなたの物にしてくれるわけです。
世界が広がったあなたは「友」をFacebookの愛のもと「友」を得ることが出来るでしょう。かの有名な人物が弟子やしもべを「友」といったように、Facebookの下に集う人を平等に「友」として繋がる権利を有しているのです。
その手助けはしてくれます。あなたが売り渡した学歴や住所・興味そして本名という個人情報を使って「友」をみつけ「友」同士をつなげる手助けは惜しみません。
それはFacebook自身が、教えとして大切な“隣人愛“こそが、Facebookそのものを“乳と蜜の流れる場所”にする一番重要なポイントだと知っているからでしょう。
人が集まる場所にバザールが出来るのは自然の摂理です。
約束の地であなたが出会うヴェニスの商人達はあなたにお金を借りることや1ポンドの肉を強要することはないでしょう。ただ、あなたの貴重な時間をゲームにつぎ込んで欲しい、あるいは時間がないのなら3000ダカットとまでは言わないけれどお金をつぎ込んで欲しい。もちろん足りない部分はあなたの親から引き出せば良いだけのこと。
それがいつの間にかFacebookという約束の地よりも大きなお金を稼ぎあげるソーシャルゲームビジネスになっていることはご承知の通り。
約束の地を駆け回り「友」と出会い「友」を増やし、ファンページという大地を新しく開拓したあなたはいずれはこの約束の地の狭さに気がつくでしょう。
ですがそれを見落とすFacebookではない。Facebookはありとあらゆる世界…インターネット上のWebサイトにあなたが見たという足跡を残すための「いいね!(Like)」ボタンを用意したのです。
あなたが出会った人と情報と場所を「いいね!」を通じてあなたの隣人と共有することが出来るのです。
ここまで6年。
少なくともまだFacebookが最後の晩餐を迎えるのはまだまだ先のことでしょう。それどころか米国政府という洗礼者によって今のFacebookが悔い改めるという事がこの先待っているかもしれません。
利用規約という聖書の元の平等。マーク・ザッカーバーグの導きのままに;-p